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弟14話 澪が隠したこと

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-04 09:17:46

 録音表示灯の赤だけが、放送室の暗闇で脈打っていた。

 窓は閉じ、扉も内側から施錠されている。逃げ場のない空間で、古いスピーカーは六人分の呼吸を繰り返していた。

 澪。

 朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 そして、上着を掛けられた透。

 死んだはずの透の息だけが、ほかの五人より少し遅れて聞こえる。

 ひゅう。

 ひゅう。

 誰かが死者の喉へ空気を送り込んでいるようだった。

「止めろ」

 悠斗が録音機へ近づいた。

 朔が腕を伸ばして遮る。

「触るな。どこまで記録されているか分からない」

「まだ記録が必要だって言うのか」

 悠斗の声は掠れていた。怒りより、恐怖を押し戻すための強さがあった。

「透が死んだ。次は澪だと名指しされた。それでも、機械を眺めて待つつもりか」

「壊せば出られるとは限らない」

「なら、どうする」

 悠斗は朔ではなく、澪を見た。

 視線がまっすぐ胸へ刺さる。

「澪。お前、何を隠してる」

 赤い光が一度明滅した。

 澪はポケットの中で組紐を握った。湿った絹糸が掌へ貼りつき、細い繊維が古い傷を撫でる。

「さっき、思い出したことは話した」

「全部か?」

「全部って……」

「八年前、澄花とは途中ではぐれた。警察にはそう話したはずだ」

 悠斗は一歩近づいた。

「だが実際には、理科準備室の扉越しに声を聞いてた。助けを求められてた。違うか」

 澪は唇を開いたが、声が出なかった。

 美月が二人のあいだへ入ろうとする。

「今、追い詰めても――」

「追い詰められてるのは全員だ」

 悠斗が遮った。

「一人ずつ殺されるかもしれない。澪が何か知ってるなら、黙っていられる方が危険だ」

「澪が透を殺したって言いたいの?」

「そうは言ってない」

「言ってるのと同じよ」

「お前も隠してるだろ」

 悠斗の目が美月へ向く。

「澄花が負傷していたことを知っていたか。お前の質問だった。答えを言わないのは、知られたくないからじゃないのか」

 美月の頬が強張る。

 救急鞄の持ち手を握る指へ力が入った。

「今は澪の話だ」

「都合がいいな」

 悠斗の乾いた笑いが、密室へ落ちた。

 壁際にいた奈々香が、割れたスマートフォンを胸へ押しつけたまま俯いている。呼吸は浅く、肩が小刻みに揺れていた。

「奈々香」

 悠斗が呼ぶ。

 彼女は顔を上げなかった。

「知ってることがあるなら話せ」

「ない」

「本当に?」

「ないって言ってるでしょ」

 声が裏返った。

 その瞬間、録音機から少女の笑い声が流れた。

 くす、と短く。

 奈々香の肩が跳ねる。

 スピーカーの奥で、七刻女学校のチャイムが一音だけ鳴った。

 かあん。

『嘘は数えます』

 澄花に似た声が、静かに言った。

 奈々香の顔から血の気が引いた。

「やめて」

 誰に向けた言葉か分からない。

「奈々香」

 澪が呼ぶ。

 奈々香は唇を噛み、やがて目を閉じた。

「口論してた」

 声はほとんど息だった。

「澪と澄花。理科準備室の前で」

 澪の胸の奥へ、冷たいものが沈んだ。

「見てたの?」

「全部じゃない。少しだけ」

 奈々香は壁から背を離せないまま、途切れ途切れに言葉を続ける。

「あの人形のことで揉めてた。澄花が布袋から出して、持って帰るって言った。澪は置いていけって止めてた。気持ち悪い、危ないって」

 暗い準備室の前。

 濡れた制服。

 黒い布袋。

 白い人形の頬。

 記憶の奥で、澄花が組紐を引く音がした。

『返し雛は、持って帰らないと駄目なの』

『誰に言われたの?』

『置いていったら、また誰かが持ち出す』

『それなら先生か警察に――』

『大人に渡したら売られるだけだよ』

 澪の頭の中に、八年前の声が重なる。

 奈々香は続けた。

「澄花、すごく怒ってた。澪も泣きそうな顔で腕を掴んでた。二人とも普段みたいじゃなかった」

「どうして、今まで言わなかったの」

 美月が問う。

「警察にも」

「怖かったから」

 奈々香は両腕を抱いた。

「澄花が消えたあと、私が見たって言えば、澪が疑われると思った。でも、澪は警察に、途中ではぐれたって言った。口論のことも、準備室のことも言わなかった」

 澪へ向けられる視線が増えた。

 悠斗。

 奈々香。

 美月も、疑うというより答えを求める目で見ている。

 朔だけが少し離れ、澪の横顔を見ていた。

「なぜ隠した」

 悠斗が訊く。

 澪は指の中の組紐を強く握った。

 湿った糸が掌の古傷へ食い込み、痛みが白い記憶を引き寄せる。

「思い出せなかったから」

「今は思い出してる」

「全部じゃない」

「じゃあ、覚えてるところまで話せ」

 悠斗の声が低くなる。

「透が死んだんだ。次に誰かが死ぬ前に」

 澪は目を閉じた。

 暗闇の中で、八年前の理科準備室が形を持つ。

 扉の木目。

 薬品の臭い。

 床へ散った硝子。

 澄花の爪が内側から木を引っ掻く音。

「澄花は……生きてた」

 自分の声が遠く聞こえた。

「準備室へ閉じ込められたあとも、生きてた。私は知ってた」

 奈々香が息を呑む。

「扉の向こうから、私の名前を呼んでた。開けてって。何度も」

「誰が閉じ込めた」

 悠斗がすぐに訊く。

「分からない」

「映像では誰かが押し込んでた」

「顔は見てない。私が追いついたときには、扉は閉まってた」

「鍵は?」

「掛かってなかったはず。でも、開かなかった。誰かが向こう側から押さえてたのか、何かを噛ませてたのか……」

 記憶の中で、澪は取っ手へ両手を掛けている。

 何度引いても、扉は僅かしか動かない。

 隙間から澄花の指が伸びた。

 爪の剥がれた指先。

 掌へ触れかける。

「私は開けようとした」

 澪の喉が震える。

「澄花の手を掴もうとした。でも、火災警報が鳴った」

 耳の奥で、甲高いベルが蘇る。

 赤い灯りが廊下を染める。

 天井から白い煙が流れ、誰かが走る足音が近づいてくる。

「本当に火が出たの?」

 美月が訊く。

「分からない。煙はあった。でも、熱くなかった。警報が鳴って、誰かが逃げろって言った」

「誰」

 朔の声だった。

 澪は目を開けた。

 彼の顔を見た瞬間、耳元へ落ちた男の声が重なる。

『もう助からない』

 低い声。

 濡れた革と機械油の臭い。

 共通の腕時計。

「思い出せない」

「男だったんだな」

 悠斗が言う。

「うん」

「俺か、朔か、透か」

「決めつけないで」

 美月が睨む。

「当時、近くにいた男は三人だ」

「声だけなら、誰かが録音を流した可能性もある」

 朔が静かに言う。

「校内には仕掛けがあった。澄花もそれを見抜いていた」

「自分の声だと困るのか」

 悠斗が吐き捨てる。

 朔は視線を逸らさない。

「澪の記憶を、こちらの都合で完成させるな」

 その言葉へ、澪は胸を締めつけられた。

 守られているようにも、何かを思い出させないようにしているようにも聞こえた。

「それで、逃げたのか」

 悠斗が澪へ戻る。

 澪は頷いた。

「腕を掴まれて、引き離された。煙が濃くなって、警報が鳴って……私は走った」

「澄花を残して」

 奈々香の言葉は、責めるより怯えていた。

「そう」

 認めた瞬間、胸の奥に八年間押し込めていたものが崩れた。

「私が戻っていれば、助けられたかもしれない」

 声が震える。

「警察が来るまで、まだ時間があった。扉を壊せたかもしれない。誰かを呼べたかもしれない。でも私は、外へ逃げた。門まで走って、振り返らなかった」

 涙が頬へ落ちた。

 澪は拭わなかった。

「警察に本当のことを言えなかった。澄花の声を聞いたって言ったら、どうして助けなかったのか訊かれると思った。私が残したって分かったら……」

「だから、はぐれたと」

 美月が呟く。

「うん」

「私たちにも黙ってた」

「言えなかった」

 澪は赤い組紐をポケットから取り出した。

 透明な袋の中で、黒ずんだ赤が照明のない部屋に鈍く浮かぶ。

「これも、澄花が私に渡そうとしてたのかもしれない。扉の隙間から伸びた手に、赤いものがあった。でも、掴めなかった」

 悠斗が組紐へ近づいた。

 次に、床へ落ちた透の首の磁気テープを見る。

 彼の瞳が細くなる。

「同じだ」

「何が?」

 奈々香が訊く。

「結び方」

 悠斗は組紐の輪と、透の首から切り取られた黒いテープを交互に指した。

「どっちも二重に回して、端を内側へ通してる。澪が組紐を扱えるなら、透の首にも同じ形で巻ける」

 奈々香が澪から一歩離れた。

 美月がすぐに床へ膝をつく。

「待って」

「見れば分かるだろ」

「分からないから確認するの」

 美月は手袋を替え、組紐の袋を朔から受け取った。次に、透の首から外した磁気テープをライトの下へ広げる。

「材質が違う。組紐は絹糸を芯へ巻いて編んだもの。磁気テープは薄い樹脂に磁性体を塗った帯。硬さも滑り方も違う」

「結び目の話だ」

「これ、結ばれてない」

 美月の言葉に、悠斗が止まった。

「透の首へ巻かれていたテープは、何周も重なって締まっていただけ。端を内側へ通したように見える部分は、切断したあとに反り返った箇所よ」

 美月は医療用の鋏を入れた位置を示した。

「暗い赤い光の中で見れば、輪の重なりが結び目に見える。でも実際は違う。組紐の方も、輪は保管中に癖がついただけで、今は結ばれていない」

 朔が小型カメラの照明を強くした。

 白い光の下で見ると、二つは似てもいなかった。

 組紐は細い編み目が柔らかな輪を作る。

 磁気テープは鋭く折れ、互いに重なって黒い帯となっている。

 澪は、暗い室内で自分まで同じ形に見えていたことに気づいた。

「錯覚……」

 奈々香が呟く。

「そう見えるように置かれてたのかもしれない」

 美月は悠斗を見上げた。

「少なくとも、これを根拠に澪が透へ巻いたとは言えない」

 悠斗は何も返せなかった。

 朔が床へ散った黒いテープを見つめる。

「誰かが、澪を犯人に見せようとしている」

 迷いのない声だった。

 澪は朔を見た。

「どうして、そこまで言い切れるの」

「透の死の直後に、お前の記憶を刺激する音声が現れた。組紐も戻された。次はお前だと名指ししたうえで、似て見えるものを同じ場所へ置いた。偶然にしては順序が整いすぎてる」

「でも、私が隠してたことは本当」

「隠していたことと、殺したことは別だ」

 朔の声は低く、澪の逃げ道を塞ぐのではなく、足元へ線を引くようだった。

「お前は澄花を残して逃げた。それは消えない。だが、透の首へテープを巻いた証拠にはならない」

 厳しい言葉だった。

 それでも、澪は初めて深く息を吸えた。

 そのとき、放送室の外から音がした。

 きい。

 硬いものが黒板を引っ掻く音。

 全員が扉へ振り向く。

 閉じていたはずの扉が、ゆっくりと外側へ開いた。

 外れた蝶番は床に落ちたままなのに、扉は見えない軸へ支えられ、音もなく立っている。内側の錠が回り、取っ手が下がった。

 廊下の向かいにある教室の扉も開いていた。

 暗い教室。

 黒板だけが白く浮かび上がっている。

 誰も近づいていないのに、白い線が黒板を走った。

 一人目は透。

 文字の下へ、横線が引かれる。

 その次に、二人目は――と現れた。

 澪。

 名前は数秒で消える。

 続いて、朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 五人の名が一つずつ書かれ、そのたびに白い粉となって落ちた。

 最後に、黒板の中央へ空白だけが残った。

 誰の名もない。

 その空白の横へ、赤い手形が押された。

 指の短い、小さな手。

 透のものでも、澪たち五人のものでもない。

 教室の床で、濡れた上履きが一歩だけ鳴った。

 ぺたり。

 赤い手形の小指が、黒板の上でゆっくり曲がった。

【自己確認】

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